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第一次は徳川氏と北条氏の和睦に伴う沼田領

この第一次、第二次の上田合戦は、それぞれ性格が異なる。

第一次は徳川氏と北条氏の和睦に伴う沼田領の帰属問題に端を発し、北条氏への沼田領引き渡しを求める徳川氏とそれを拒絶する真田氏の領地争い(意地の張り合い)の色合いが濃い。殊に真田氏にとっては、武田の旧臣から信濃の独立勢力として認められることが最重要であり、最後まで意地を張り通すことになる。結果的に徳川を撃退することで、真田の名を豊臣氏を始めとする有力緒将に知らしめることに成功した。
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しかし、第二次では豊臣方(西軍)と徳川方(東軍)の軍事衝突(関ヶ原合戦)が避けられない状況下で、昌幸と昌幸の二男信繁が豊臣方(西軍)についたことが起因している。信濃国の大名がこぞって東軍に与するなか、あえて昌幸と信繁が西軍に与した理由は諸説あるが、昌幸の五女が石田三成の妻の実家である宇田氏に嫁いでおり、しかも昌幸二男信繁も三成と親交があり西軍に与した大谷吉継の娘を妻にしているという姻戚関係が、昌幸・信繁父子の選択に重要な影響を及ぼしたと言われている。逆に、昌幸の長男信幸は徳川家康の養女である小松殿を妻にしていたため、東軍として上田攻めの徳川秀忠隊に加わっている。この選択は、大名家としての家名存続を最優先と考えていたともされ、「名を売った」第一次とは根本的に異なる。

この2度の戦い通じて、真田昌幸という武将の名は「戦巧者」として全国に知られることになる。

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2009年06月06日 07:52に投稿されたエントリーのページです。

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